だいいちじ-せかいたいせん【第一次世界大戦】
引用: 広辞苑より
三国同盟(独/墺/伊)と三国協定(英/仏/露)との対立を背景として起こった世界的規模の大戦争.サラエボ事件を導火線として1914年7月オーストリアはセルビアに宣戦し,セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露/仏/英と相次いで海鮮,同盟側(トルコ/ブルガリアが参加)と協商側(同盟を脱退したイタリアのほかベルギー/日本/アメリカ/中国などが参加)との国際戦争に拡大.史上最初の総力戦となった.最後まで頑強に戦ったドイツも18年11月に降伏,翌年ヴェルサイユ条約によって講話成立.欧州大戦.第一次大戦.
ダダ運動がはじまったのは1916年,第一次世界大戦の中立国であったチューリッヒが発祥とされています.
戦争を逃れてきた詩人や芸術家が,大戦を行う西欧の旧体制に反抗し,「なにも意味しない = ダダ」という概念をかかげて,言語破壊や反芸術的な活動を行いました.ツェラ(詩人)やピカビア(画家)なども活動に協力し,「ダダ」は国際的な活動へと拡大していきます.
ダダ運動の起源に関しては,一般的には以下のような裏付けから「詩人ツェラがはじめた」と考えられています.
ダダ(dada)は,すでにふれたように,一九一六年二月にチューリッヒの文芸カフェ,キャバレー・ヴォルテールで,ドイツ人バル(詩人・反運動家),ヒュルゼンベック(医学生・詩人),ルーマニア人ツェラ(詩人),ヤンコ(造形作家),アルザス出身のアルプ(造形作家)ら多様な国籍と経歴を持つ人びとの出会いから生まれた.この時点では,明確なリーダーが存在したわけではなかったが,ダダという語の発明は,当時まだ二〇歳前の若者で,チューリッヒ大学の学生だったトリスタン・ツァラ(Tristan Tzare 本名Samuel Rosenstok,1896-1963)によるものであり(『ラルー小辞典』から偶然見つけたとされるが,実はルーマニア語で二重の肯定を意味する),最初のダダ宣言(「アンチピリン氏の宣言」)もツェラが執筆しているので,彼をチューリッヒ・ダダの創始者と認定することができる.
引用: 『ダダ・シュルレアリスムの時代』より
1918年の「ダダ宣言1918」は,フランスの画家フランシス ピカビアを感動させ,ピカビアを通じてマルセル デュシャンやマン レイへと拡がりをみせます.他にも多くの芸術家(詩人や画家など)を巻き込み,パリやニューヨークにも伝播しますが,その後数年で勢いは衰え,1920年代半ばにはほとんど姿を消すことになります.
ダダイズム(ダダイスム),ダダイストの解釈.
「ダダイズム」「ダダイスト」といった言葉も登場しますが,これらは基本的に「ダダ」と同義であると考えて問題ありません.「ism(イズム/イスム)」は「〜主義」「〜説」といった意味で,「ist(イスト)」は「〜を行う人」「〜主義者」を表します.
「ダダ」という言葉自体が「概念」「主義」「ダダに携わる人」というニュアンスを含んでいるので,これらを明確に区別する必要は無いと考えておいて問題ないでしょう.広辞苑で「ダダ」を調べると「ダダイスム・ダダイストの略」と明記してあります.
ダダイスム【dada isme(フランス)】
引用: 広辞苑より
(dadaはあえて無意味な語を選んだもの)第一次大戦中から戦後にかけて,チューリッヒからベルリン/ケルン/パリと波及した芸術運動.規制の権威/道徳/習俗/芸術形式を一切否定し,自発性と偶然性を尊重.意味のない音声詩/コラージュ/オブジェ/フォトモンタージュ/パフォーマンスなどを生み,20世紀芸術の源流となる.東京/ニューヨークにも伝播.略称,ダダ.
「ダダ」に影響を受けた作品(適宜追加します)
調べることができた範囲で,「ダダ」に影響を受け創作されたと考えられている作品を以下にまとめておきます.基本的に,作品名,作家,出版社の順で記載しているので,気になる作品があれば書籍を確認ください.
- マルセル デュシャン,《泉》,『マン・レイと女性たち』平凡社
- マン レイ,《女性綱渡り芸人は彼女の影をともなう》,『マン・レイと女性たち』平凡社
- 高橋新吉,《ダダイスト新吉の詩》,日本図書センター
SourceNotes
- 『ダダ・シュルレアリスムの時代』塚原 史著(ちくま学芸文庫)
- 『マン・レイと女性たち』巖谷 國士著(平凡社)