『アジェのパリ【新装版】大島洋著』を読み終えての感想.
1900年ごろ,約8,000枚ものパリの街並みを記録した写真家アジェ.そのアジェの『ATGET PARIS』という写真集がある.『ATGET PARIS』には複数の版があるのだが,概ねそのページ数は600ページから700ページにも及ぶ.その『ATGET PARIS』に掲載されている写真と地図をヒントにして,筆者自らがアジェの足跡をたどる.パリと東京の2拠点で,足と眼、全身の感覚すべてを活かして書き上げたのが『アジェのパリ【新装版】』である.
アジェの撮影した街並みをたどる過程には,様々な気付きがある.旅役者を40歳で辞め,それから写真を撮りはじめたアジェの人生も,その過程から垣間見えてくる.
アジェのパリ【新装版】,パリの街を撮り続けた写真家アジェに学ぶこと.
アジェの撮る写真を「街の化粧をこそぎ落としている」と表現する者もいる(複製時代の芸術作品を書いたベンヤミン※ページ参照).そして,アジェの撮る写真は,曖昧で混沌としていて不思議なリアリティーがある.人の気配は希薄で,誰もいないように見えるがよく見ると窓辺や路上,ときには物陰に人が佇んでいることもある.『アジェのパリ【新装版】』には,100を超えるアジェの写真が図版として使われているので,アジェの残したパリの街並みを眺めているだけでも心地よい.ちょっとした写真集のようにも楽しめると思う.
「アジェは役者だったが,その商売にいやけがさして化粧をおとし,そしてそのあと,現実からも化粧をこそげおとす仕事にとりかかった」と,『複製時代の芸術』(晶文社,一九七〇年)にヴァルター・ベンヤミンがいうように,この不思議なリアリティーは,アジェの写真が街の化粧をこそげおとしているからだろう.
実際にアジェはどのような性質を持つ写真家だったのだろうか.アジェは写真以外の資料が少ないため,アジェの性格,どのような思いで晩年まで写真を撮り続けていたのかはそう詳しくは解らない.しかし,筆者は,写真を撮るアジェには言葉にしづらい独特のノリがあったのではないかと述べている.
以下の引用は、本書の中で何度も読み返した一番好きな部分.「写真を撮るということは,結局のところは写真家の直感と直観である」というところは深く共感を覚えたフレーズだ.写真を撮るときになったら,あーだこうだと頭で考えず「撮ろう」という自分の感覚に素直になって撮ればいい.そうアジェに教えられた気がした.
その一方,確かに写真を撮るということの深みは,そうした分析や計画性のみつどによってだけ推し量れるものではない.どんなに緻密な撮影計画に時間を割いたとしても,そのためにどれほどの努力と持続力とを傾注できたとしても,写真を撮るということは,結局のところは写真家の直感と直観であり,街を歩きながら,カメラの中に写し出される風景を見つめながら,テンションが高まっていゆく「ノリ」のようなものである.まなざしの力はこのノリの中でこそ瞬間的に発揮される才能であって,じっくりと時間をかけて見ることはできないし,必ずしも凝視するということでもない.写真を撮るということが,その成立の起源から,見るという行為と同義語にして一体化されていたために,時間をかけて被写体を見つめることが優れているかのように勘違いし,まことしやかな批評言語が繰り返し喧伝してきたにすぎない.
『Eugène Atget: Paris(多言語版)』併読がおすすめ
『アジェのパリ【新装版】』を読み始めると,お供に欲しくなってしまうのがアジェの写真集『ATGET PARIS』.もちろんのことだが,写真集も購入して併読するとアジェの写真をもっと好きになると思う.
この記事を書いている時点では,Amazonで販売されている『Eugène Atget: Paris(多言語版)』を2,000円ちょっとで購入できる.この記事をここまで読んでくれた人であれば,買っても後悔はしないと思うので,ポチってしまって問題ない.
600ページ以上の厚さで厖大な数の写真がおさめられているが,手に取りやすくページ数の割にはそこそこ軽い.筆者が「ATGET PARISを常にかばんに入れてパリの街を歩いた」というのも納得できる.
写真を撮ることと,カメラを所有することの本質を考えさせてくれる一冊,それが『アジェのパリ【新装版】』.
アジェの生きた時代には,小型化したカメラもつくられていたが,アジェは三脚を据えて撮影しないといけない古いタイプのカメラをつかってパリを撮り続けた.レンズも複数所有していなかったらしく,広角レンズで撮影された写真がほとんど.
街並みを撮影しつつも,時折ポートレートのようにしてパリに住む人達の記録も残している.そして,撮られた人の多くは,皆いい表情をしている.
写真とカメラを趣味にしていると,定期的にレンズ沼など色々な沼にハマりそうになる.そんな時には『アジェのパリ』を手に取り,写真の楽しさの本質について考えてみようと思う.この本は良書,みすず書房は本当にいい本を作ってくれる出版社だと感じた.
アジェとパリ,大島洋氏とみすず書房に感謝.
〈了〉
編集後記: 『アジェのパリ【新装版】』を読んで,語彙が少しだけ増したし,興味の範囲も拡がった.
『アジェのパリ【新装版】』には,(僕が)普段使わないような言葉がたくさん出てくる.慣れない言葉なので,読書中は辞書アプリを度々起動し調べながら読み進めた.以下は,本書を読みながら書きとどめた読書メモや,それらの言葉の意味を調べながら考えたことの備忘録.
「哀惜」と「愛惜」, #アジェのパリ【新装版】大島洋著を読みながら.
アジェのパリ【新装版】大島洋著を読んでいる.表紙(裏)にある書籍解説に以下のようなことが書かれていて,哀惜という言葉を知った.
ウジェーヌ・アジェが写真を撮っていた時から,百年が過ぎている.アジェの撮影した厖大なパリの写真は,「失われゆく都市への哀惜」というような語られ方をされることが多い.しかし,実のところはどうなのだろう.ここに一人の写真家が決然と,アジェの写真の中へ入っていく.
といった文章だ.「哀惜」と同じ音で「愛惜」という言葉もある.
- 哀惜は,(人の死などを)悲しみ,惜しむこと.
- 愛惜は,あるものがとても気に入って心惹かれ,大切にすること.
「哀惜」は人の死などについて言い,「愛惜」はものなどについて言う.微妙な意味合いの違い,表現の色合いの差異がこのふたつの言葉にはあると感じた.
アジェのパリ【新装版】には,アジェの撮ったパリの街並みの図版も多く添えられている.視覚に心地よいていどに刺激しながら,哀惜という言葉の意味を実際に感じている.
参照: 「哀惜」と「愛惜」, #アジェのパリ【新装版】大島洋著を読みながら.
「頌辞」と「静謐」のメモ
日常使わないような,難しい言葉も登場するので読み応えがある.「頌辞(しょうじ)」は,30年以上活字に触れてきたがページのうえで見た記憶は無いし,「静謐(せいひつ)さを堪(こた)えた」のような表現もなかなか使わない.
頌辞は,「ほめたたえる言葉.ほめ言葉.賛辞」という意味で,静謐は,「しずかでおだやかなことや,その様」を表す.
「埒外」のメモ
「埒外(らちがい)」は,一定の範囲の外といった意味を示す.勝利の埒外に出て〜,のような使い方もする.アジェのパリ【新装版】では何度も使われる表現なので,自分が文章を書くときにも自然に使えるようになりたい.
エルスケンが『セーヌの左岸の恋』を撮ったのは一九五〇年頃からであり,アジェとの間には,およそ半世紀の開きがある.しかし考えてみると,私がアジェとエルスケンを知ったのは,どちらも殆ど同じ頃ということになり,このまったく異質な二人の写真家と,その二人がこの同じパリの同じ界隈を撮った,やはりまったく異質な写真とを,同時に好きになっていたことになる.とっくの昔に気がついていて当然のこんなことまでが,これまで想像の埒外であった.
また,この本がキッカケとなりエルスケン(写真家,『セーヌの左岸の恋』)やランボー(詩人)の作品にも触れてみたいと感じるようになったし,ベンヤミンの『パサージュ論』は,岩波文庫から新しく発売されていたのでまとめ買いしてしまった.
〈編集後記: 了〉