世阿弥の『風姿花伝』から「良いコンテンツをつくること,良いコンテンツであると伝える努力をすることは,どちらも大切である」ということを学ぶ / #便利屋雑感

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Photo : SMATU.net


『#便利屋雑感』は,1,000文字前後の短い雑記.5分くらいでサクッと読めます.

今回は,世阿弥の『風姿花伝』から「良いコンテンツをつくること,良いコンテンツであると伝える努力をすることは,どちらも大切である」ということを学びました.というお話.

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室町時代の能役者・能作者である世阿弥(ぜあみ)の書いた風姿花伝.

世阿弥の『風姿花伝』から「良いコンテンツをつくること,良いコンテンツであると伝える努力をすることは,どちらも大切である」ということを学ぶ

以下の文章は,世阿弥が能楽論を著した『風姿花伝』の一節.ここを読んだとき,良いコンテンツをつくること(世阿弥であれば能作品)と,そのコンテンツの素晴らしさを世間に伝える努力を怠らないことはどちらも大事で,それは世阿弥が生きていた時代から変わらないんだなぁ,ということを感じた.

さて,肝心なことは,能の世界ではただ芸の魅力こそが最重要であるのに,その魅力がなくなってしまうのも認識せずに,昔の名声ばかりに頼ろうとすることは,古株の役者の,甚だしい誤りである.数々の演目をこなしたとしても,芸の魅力の見せ方を知らない役者の能は,花の咲かぬ季節の草木を集めて鑑賞するようなものだ.多くの草木において,花の色は何違っていても,人が花を面白いと思うことは,同じなのである.自演の演目が少なくても,ある一芸の魅力を極めたような役者は,その一芸についての名声は長続きしよう.一方,本人としては,自演演目が多くてずいぶん芸に花があるはずだと思っていても,その魅力を観客に見せる工夫がない役者は,田舎の花や藪に咲く梅などが,見る人もいないのに咲き誇っているようなものである.

また,同じ上手といっても,その中でが段階がある.たとえかなりの程度に芸を極めた名うての上手であっても,右に述べた花を見せる工夫のないような役者は,上手とは言われても,芸の魅力は長続きするはずがない.この花の工夫を極めたような上手であれば,たとえ技量的には衰えても,芸の魅力は残るであろう.芸の魅力さえ残れば,面白さは生涯にわたってあり続けよう.だから,本当の芸の魅力が残っている役者には,どんな若さの魅力であろうとも,勝てるはずないのである.

引用 : 風姿花伝第三 問答条々より

世阿弥は風姿花伝の中で,芸の魅力のことを「花」という言葉で表現している.引用している『風姿花伝第三 問答条々』の一節は,(能を演じる者は,)

自作の数の多さだけでなく,それを魅せる演出上の工夫の大切さを説く点で

引用 : 風姿花伝第三 問答条々 【解説】より

と解説されている.

上記の解説(解釈)は,僕自身が世阿弥の文章から感じた内容とは少々異なるが,いつの時代でもコンテンツをつくることと,それを宣伝することはどちらも大切なんだなぁと,改めて考えさせられる一節だった.

世阿弥(ぜあみ)が生きた時代は,室町時代の前期.『風姿花伝・三道(角川ソフィア文庫)』の著者紹介では,1363(64)〜1443年?と書かれている.500年以上も昔である.所謂「古典」と呼ばれるものからは,現代に出版される書籍とは違って物事の本質的なことを学ぶことができる.

古典と呼ばれる書籍は,本当に面白い.

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今回取り上げたのは,風姿花伝のほんの一部.

他にも学べることが多い書籍なので,気になる人は書店で手にとって見るとよいだろう.ちなみに僕は,岩波文庫版の風姿花伝では挫折した人だが,角川ソフィア文庫の風姿花伝はすらすら読めている.

条条→「じょうじょう」と読み,ひとつひとつの箇条という意味.条は一文字では「おち」と読む.意味は同じと考えておいてよい.ちなみに最初の条条は「おちおち」と読むのも正しい.

↑こんなことも学べます.

〈了〉

SourceNotes

  • 風姿花伝・三道 現代語訳付き(角川ソフィア文庫)