書籍レビュー | ジョナサン・アイブ 偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー 第1回(全4回)

先日、Appleのデザイン部門トップのジョナサン・アイブ氏が同AppleのCDOに就任されました。
CDOとは、チーフ・デザイン・オフィサーの略称でAppleがアイブ氏のために新しく用意したポジションです。

ジョナサン・アイブ氏、Appleの新役職「最高デザイン責任者(CDO)」に
※ITメディアのサイトリンク

それを記念して、「ジョナサン・アイブ 偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー」のブックレビューを全4回に分けてお届けします。

1967年2月27日。
ジョナサン・アイブ(以下ジョニー)は、サーロインステーキで有名なイギリスチングフォードで生まれます。

父のマイケル・ジョン・アイブは、銀細工職人、母のパメラ・メアリーは心理セラピストでした。

ジョニーはチングフォード財団学校入学し、そこで識字障害の診断を受けます。
(スティーブ・ジョブスにも同じ障害があったといわれています)

チングフォード財団学校は、デビットベッカムも卒業生です。ジョニーの8年後輩です。

高校時代の印象的なエピソード

父親からのクリスマスプレゼントは、工房を父と一緒に思う存分使えることでした。
しかしそのプレゼントには、条件が一つだけありました。

それは、作りたいものを手で描くこと

「昔から手作りのものは美しいと感じていた。本当に大切なのはそこに込められた手間と心配りなんだ。いい加減に作られたものを見るといやな気分になる」
ジョブスの伝記を書いたアイザックソンに後にアイブはそう語っています。

高校には愛車のメイベル(オレンジのフィアット)で通学していて、この頃からジョニーは大の車好きでした。
(アイブ氏のデザインが噂されているApple CARも楽しみです)

アップルカーは、自動車市場を“破壊”するのか?
2月中旬、世界を駆け巡った「アップル、自動車産業参入」のニュース。
2月20日には、ブルームバークが「2020年にもアップルは電気自動車を製造開始する」と報じた。
アップルはなぜ今、自動車産業に参入するのか、そして、アップルに勝算はあるのか。
3回にわたり、ブルームバークによるレポートを掲載する。
※ニュースピックスより引用

この頃から、ジョニーのデザインの才能は開花していていました。
特にドローイングに秀でており、作品は群を抜いていたそうです。
(そのまま製品化できるレベルのデザイン)

ドローイングの方法は、茶色のクラフトペーパーに白と黒のペンで描く独自のスタイルでした。

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イギリスでのデザイン教育 | 大学時代

ジョニーは大学在学中に学費の援助をしてくれてたロバーツ ウィーバー グループ(RWG)でインターンとして働きました。

才能に恵まれたジョニーは、たちまち社内で注目され日本市場担当に抜擢されました。
当時の日本市場は、今の中国のような存在の経済大国でした。

文房具メーカー「ゼブラ」の、革製品と財布のプロジェクトを任せられたりしていました。
その後同じくゼブラのペンもデザインしており、ここでも遊び心をデザインにとり入れるなどしています。

インターンを終えて大学に戻ったジョニーは、学校の課題で未来を彷彿とさせる電話をデザインします。
iPhoneの面影などはありませんが、従来の電話機の常識を覆す素晴らしいデザインでした。

ジョニーはこの作品を「ザ・オレーター」と名付けています。

大学時代、ジョニーの人生を変えた大切な出会いが2つありました。

1つ目は、
ヘザー ペッグと出会い結婚したこと。

もちろん2つ目は、Appleのコンピューターとの出会いです。

それまでコンピューターに対して一度も愛着を感じたことが無かったジョニーは、この時Macに出会い感動しました。
「その劇的な瞬間を今でもはっきり覚えている。作った人の気持ちが伝わったんだ。」振り返っています。

デザイナーとして、着実にキャリアと積み上げていくジョニー。
本の虫でもあったようで、行動心理学のB ・F・スキナーや19世紀のデザイン理論なども学んでいました。
またロンドンにある、ヴィクトリア&アルバート博物館にも父親と足繁く通っていました。

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デザイナーとしての挫折、そしてAppleとの出会い

その後ジョニーはバスルーム製品の新ラインをデザインする際も、海洋生物学の本を買いこみ自然の影響を学ぶためそれらを徹底的に読み込んだりしています。

しかしバスルーム製品の新ラインで革新的な洗面ボウルやトイレをデザインしますが、先を行き過ぎていたデザインのためクライアントからNOがでてしまいます。
その後も自分の思い通りにデザインできないことが続き、挫折感も味わっています。

当時を振り返りジョニーは、
「色んなものをデザインさせてもらって、自分のやりたい事がはっきりと見えたんだ。僕はデザインにしか興味がないし、会社を大きくする事には関心も無かったし得意でもないんだ
と語っています。

1992年9月

ジョニーは27歳の時、ロバート・ブルーナーに口説き落とされAppleに入社します。
Appleでのはじめての大仕事は、2代目ニュートンメッセージパッドのデザインでした。

この新型ニュートンでもジョニーは、デザインの賞を多数授賞しています。
ジョニーが熱心に取り組んだため、1994年3月初代ニュートン発売からわずか6ヶ月後にこの新型ニュートンは発売されます。
しかし初代での失敗はジョニーのデザインを持ってしても取り返す事が出来ず、この製品は全くヒットしませんでした。

ジョニーの次の仕事は、20周年Macのデザインでした。
このMacは従来のエンジニアが主導でなく、デザイナーが主導となり開発したはじめてのプロジェクトとなります。
2万台限定で発売され、最初に披露された2台は当時顧問としてAppleに戻ったばかりのジョブスとウォズニアックに贈られました。

このMacもデザインが賞賛されます。
ウォズニアックは、自宅に何台も置くほどこのマシンを気に入っていたそうです。

しかし一般家庭向けに開発が進められていたにも関わらず、マーケティング部門が急遽高価格帯の限定品に切り替えたためこの商品もヒットしませんでした。
そしてこれがキッカケとなり、ジョニーをAppleに誘い上司でもあったブルーナーはAppleを去る事になります。

デザイン主導のプロセスの重要性を提唱し続けたブルーナーの後任として、29歳の若さでジョニーはデザイン部門のトップに就任します。

しばらくの間はAppleの経営は混沌とし、倒産の直前まで追い込まれます。
ジョニーもIDgのトップに就任後、数ヶ月で辞めようかと悩んでいたそうです。
しかし1997年、遂にスティーブジョブスが暫定CEOとして正式にAppleに復帰します。

ここからジョニーの才能は開花し、それとともにAppleの快進撃もスタートします。

第2回へ続く

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